【目指す価値なし】「普通」が気になる理由とその末路|満たされずお金も失う生活

皆さんは日頃から「普通」を当てにして生きていないでしょうか?
何となく無意識に「普通は~…」などと言ってる人は非常に多いと思います。
しかしこの「普通」というのが非常に厄介な存在です。

人はなぜ「普通」を当てにしてしまうのか。そうした基準を当てにするのは本当に正しいのか。「普通」に従った人の末路はどんなものなのか。
このページではこうした「普通」という基準を取り巻く様々なポイントについて解説します。

1 「普通」を当てにしてしまう心理

多くの人が「普通」を無意識に口にし、さらに様々な判断基準にしていることでしょう。
人がこの「普通」を盲目的に信奉?心酔?してしまうのには大きく以下の4つの理由があります。

①相対思考 ②見栄 ③協調性 ④無責任

多くの人が無意識に「普通」を拠り所にしてるのでピンとこないかもしれませんが、自分に当てはまらないか確認してみてください。

1-1 相対思考

物事を絶対的な基準で判断するのは難しく、非常に大きな労力がかかります。
そこで登場するのが相対思考という、脳のショートカット機能です。
全ての物事の良し悪しを絶対的な基準で判断しようとしていたらキリがありません。
労力も時間も有限なので、何かの基準に照らしてそれより多いか少ないか、高いか低いか、良いか悪いかを判断しようとします。
判断を効率的に行う上では便利かつ必要な機能と言えるでしょう。

しかし何でもかんでも基準を参考に判断してしまっている多くの人の現状は、ハッキリ言ってしまえば単なる思考停止です。

みんな平均年収とか平均点とか貯蓄の中央値とか統計的な指標が大好きだよね

普通や平均などの指標を当てにする傾向がある人は、あまりにも自分の考えが無さすぎると言えるので注意すべきでしょう。
こうした思考停止を利用した様々なマーケティングのトラップにも引っ掛かりやすくなってしまいます。

1-2 見栄

テストのような競争環境は別として、そもそも世の中の誰かより年収が多いかどうかなんて本来は重要ではありません。
住んでるのがオンボロアパートでも、一生独り身でも、服が全身UNIQLOでも、自分さえ良ければ何の問題もないでしょう。

では何故そんな世の中が言う「普通」に目を向けてしまうのかと言えば、ひとえに見栄があるからです。
普通と言われる水準を満たしていないと何となく劣って見られてしまうかもしれない。
普通より上に行けば人から称賛、羨望される。
そんな人の目を気にしてしまう見栄の心理が、「せめて普通であろう」という気にさせてしまうのです。

1-3 協調性

日本は義務教育の就学率が非常に高いので、幼い頃みんな一様に協調性を学んできました。
「みんな仲良く」「平等に」「人にやられて嫌なことは…」といった感じです。
これが行き過ぎた結果が「出る杭は打たれる」や「落ちこぼれ」といったように、外れ値に攻撃的な風潮を作ってしまいます。
「普通」より上に出ても下に出ても仲間外れという考えを根深く植え付けられてしまっているというわけです。

自然界に発生することはだいたい正規分布という中間を頂点にした山なりの形状のバランスになります。
多数決をすれば真ん中らへんの人たちの圧勝で、両端の外れ値の人達は常に仲間のいない少数派です。
こうした経緯もあって「普通=正義」のような価値観を無意識に内包してしまうのでしょう。

人間の意志とは非常に頼りないもので、簡単に多数派の意見に踊らされてしまうものです。
線の長さなど一目瞭然の問いの答えですら同調圧力に屈してしまうことが研究で分かっています。
最初こそ「何かおかしいな?」と思ってても、それが繰り返される内に何の疑問も抱かず従うようになるのです。

因みにこの行き過ぎた協調性は強力なため、損失と定義することでマーケティングの材料にもされています。

1-4 無責任

ほとんどの人間は、なるべく責任を負わないようにしたいと無意識に考えています。
完全な自己責任の決断はミスがあった時に自分以外を責めることが出来ないからです。
つまり責任回避というのは、失敗した時に精神が受けるダメージを緩和しようとする心理的な防御反応の一種と言えます。

そういう点で「普通」という基準は「やることはやった」という言い訳を作るのにピッタリです。
それで生活が破綻することになっても選んだ自分のせいではなく、「世の中が良いって言ってたから従ったんだ」と可愛い自分を擁護することができます。
ついでに「立ち行かなくなったのは会社や国のせいだ」と堂々と文句を言って誰かを攻撃できるというわけです。
まるで子供みたいですが、誰かが与えてくれた基準におんぶにだっこの人の心理の根底にはこうした甘えがあります。

2 「普通」の生活を目指す必要はない

普通を重視してしまう心理が分かったところで、その基準を追う必要がない理由に移ります。
その理由は大きく分けて以下の3つです。

①人の目を気にする意味はない
②ほとんどがマーケティング戦略
③「普通の人」は空想上の生き物

2-1 誰もあなたを見てない

1つ目の理由は非常にシンプルなものです。
すなわち世の中の人は誰もあなたのことを気にしてません
見栄や協調性などを意識して「普通」であろうとすることは無意味です。

こう言われてもなかなか簡単に納得できない人が多いんじゃないかと思います。
では代わりに自分がどれくらい他人の変化や状況に気付けているかを考えてみてください。
恐らく自分のことで精一杯で、周囲のことなんかほとんど気にかけられて無いと思います。

一番身近なはずの奥さんの髪型の変化にすら気付かないくらいだからね

そしてそれはあなたの周りにいる人も変わりません。
「5-15-50-150-500の法則」によると、感情の共有など深い関係構築は15人、頻繁にコミュニケーションをとるのは50人が限界です。
つまり関係する周囲の人間全員に関心を払うことは不可能で、その人にとって重要な人でない限り細かく批評されることはありません。

ここまでしても主役気質の人だと「自分に限ってはそんなことはない」と思いがちですが、それはハッキリ言って傲慢・自意識過剰です。
自分がモブであることをそろそろ自覚しましょう。

また普通や普通以上になったからといって、人が期待通りの評価をしてくれるとは限りません
こうした他者の課題に振り回される不毛さについても認識しておく必要があります。

2-2 マーケティングの産物に過ぎない

多くの人が考えている「普通」という基準を構成する多くのモノはマーケティングによって刷り込まれたものです。
マイホーム、マイカー、4人家族、四大卒、社会人になったら保険加入、新卒から定年までサラリーマンなど。
現代人が普通だと思ってるものはほぼ全てマーケティングから始まっています。
1日3食という当たり前と思われがちな食習慣ですらシリアルメーカーが打ち出したマーケティングの産物です。

協調性の項目でも解説したとおり、繰り返されることでゆっくりですが確実に内面に刷り込まれて行きます。
テレビCMやドラマ・映画でそうしたライフスタイルを繰り返し見るうちに内包し、その通りに行動する人が増えた結果、フィクションの世界が現実になるのです。

何かモノやサービスを買わせる際、「特別なもの」と思われるより「当たり前のもの」という立ち位置を確立する方が継続的な売り上げに繋がります。
普通と思ってることの裏には、誰かが何かを買わせようという思惑が働いている、人々にそう思わせることで儲かる人がいると考えるようにすべきでしょう。

2-3 普通の人(生活)は実在しない

2021年ごろに「女性が結婚相手に求める理想像」というのが物議を醸したのを覚えているでしょうか?
「30歳、年収500万円前後、顔は○○さんでいい、…」みたいなやつです。

ド失礼だから具体名は割愛します

恐らく言ってる当の女性本人はかなり現実的な条件を提示したつもりだったのでしょう。
しかし様々なブログやコラムで検証された結果、30歳で独身の年収500万円は相当な高望みだということが分かりました。
世の中の人がいかに「普通」という価値観で感覚を狂わされているかがよく分かる事例ですね。

平均年収からは500万は普通に見えるけど、これは全年代の平均。「30歳」でソートしたら一気に該当者がいなくなるってね。

世間的に「普通」と言われていることは、確かに個々で見れば普通ですが、全部やろうとすると非常に過酷です。
特に苦手克服は得意伸張に比べて非常にコスパが悪く、頑張ったところで普通にすらならないこともままあります。

年収もそこそこあって、ルックスはまあまあで、性格も難が無く、清潔感があって、運動神経も頭脳もそこそこで、…。
これらの条件を全て満たす生き物は地球上にほとんど存在しません。

生活水準についても同じでことです。
マイホームにマイカー、父はサラリーマン、母は専業主婦、息子はサッカー、娘はピアノ教室、週末はキャンプや遊園地…。
なんて絵に描いたような「普通」の生活は、文字通り絵の中だけの話です。これらは普通と言いつつ全く普通じゃありません

3 「普通」を追い続ける人の末路

ここまで見れば「普通」なんて便利かつ無意味な選択肢には飛びつかず、自力で答えを見付けようと思えたはずです。
ですが念のため、普通をそのまま追い続けた結果としてどんな未来が待っているのかを最後に紹介します。

3-1 永遠に満足しない

多くの人にとって重要なことは人生を通して多くの満足・幸福を得ることだと思います。
では世間的な「普通」の水準に達したとして、人は自分の人生に満足できるのでしょうか?
言うまでもないですが答えはNOです。
いくら普通以上の水準に達したとしてもどこかモヤモヤしたもの・閉塞感を抱え続けることになります。

自分が本当に心から良いと思ってるわけじゃない生活を、「人に言われたから」という理由で実現したところで嬉しいわけがありません。
多くの人はここにきて初めて見栄や協調性など他人からどう見られるか、どうしたら称賛されるかを考えるのがいかに無意味かを知ります。

もちろん気付けない人もいて、そういう人は次に「普通より上」に行こうとするんだろうね

逆にどんなに他人から「おかしい」と言われたりしても、自分の価値観に従って決断した人の満足度は非常に高くなります。
人生においては何を成すかという結果より、どうやって来たか、その自己決定のプロセスの方が重要ということです。

人は責任を放棄することにより人は不幸になり、逆に自分で決断することによって満足を得ることが出来るのです。
このことについては他責思考の問題としてこちらのページで詳しく解説しています。

自分でしっかり考えた結果としてマイホームや車、結婚や子供を欲していると言うなら、それは(あなたにとっては)正解の判断です。
但しこうした「普通」の生活にはかなりの困難が伴うことも覚えておかなければいけません。
そのことについて次の項目で解説します。

3-2 永遠にお金持ちにはなれない

「普通」の生活には莫大なコストがかかります。
都心で働くには家賃、四大卒の学歴には膨大な学費(予備校代を含む)、生涯かかる子供の教育費もバカになりません。
また「普通」と言われている家や車、その他の生活水準はほとんどが負債であり、資産がドンドン流れ出していきます。

代わりに誰かが得するための刷り込みなんだから当たり前だよね

因みに資産・負債の定義についてはこちらをご覧ください。

負債を持つために借金(ローンや奨学金)という負債を重ね、買った後も資産を食い潰され続けるので一向に資産は築けません。
負債などの浪費はバケツが満水になって零れた分、すなわち余剰金を使ってすべきものです。

貯めるのが先、使うのは後

しかし多くの人はバケツの水が溜まる前に底に大穴を空けて、出てきた水を車などの浪費に使ってしまいます。
こんなバケツ(家計)ではいくら水を注いだところで水が溜まるわけがありません。
こうした優先順位の判断ミスも「普通」という刷り込みが強く影響しています。
「普通」と思うことで「家や車は必要経費・必需品だ」「すぐに買わないと」と勘違してしまうのです。

常識的な方法では平凡な結果しか生まないという現実は今や多くの人に知られています。
「普通・常識」という感覚・基準は世の中の8割に共有されている認識のことを言うようです。
世の中の大多数が中流以下であることからも、それと同じ考えで行動してる人がお金持ちになれないことは明白でしょう。

また負債を持つことは未来の労働を約束することであり、自分を縛って選択の幅を減らす行為ということも認識しておくべきだとぼくは思います。

4 冷静になってゼロベースで考えよう

ここまでは「普通の生活に充実感・満足感はないよ?」「お金持ちにはなれませんよ?」という話をしてきました。
こうした事実と同時にそもそも身の丈(所得水準)に合った生活か?ということも考えなければいけません。
家や結婚、大学進学(奨学金の返済)など、それに見合うだけの収入がないなら一度よく考えて判断は冷静に下すべきです。

こう言うと差別や人権否定のような冷酷な意見のように感じる人が多いんじゃないかと思います。
しかしそう思ってしまうのは「普通」によって目を曇らされ「これらは万人が持って然るべきもの」と思い込んでるからです。

「普通」というやつは「あれも必要、これも必要」と様々なモノ(主に負債)を買わせようと押し付けてきます。
ですが、この世に万人に共通する必要なモノ、無くてはならないものなんてほとんど存在しません
マイホーム、マイカー、結婚、子供、大卒の学歴、正社員、スマホ…なんでもです。
みんなが持ってるからと言ってあなたにも必要なモノとは限りません。しかもたいていは不要です。

ここで1つ断っておきたいことがあります。
前の項で、幸福感・満足感を得るためには自己決定のプロセスが重要だと解説しました。
このことからも明白ですが、ぼくは決して「マイカーやマイホームを買うのは愚かだ!」と言いたいわけではありません。
「普通だから」と自分の頭で考えることもしないで、お金の代わりに負債と不満を抱えて不機嫌に生きてる人を愚かだと言ってるだけです。

要らない負債を持ったがために余計に働かなきゃいけなくなってストレス抱えてるんだからね

お金は可能性を拡げる上で重要ですが、人生の目的は満足感・幸福感を最大化することであり、お金はあくまでそのための手段だと思っています。
すなわちお金よりも満足感・幸福感の方が重要ということです。

そのため「身の丈には合わないかもしれない…けど本当にそれが自分にとって必要」という自己決定のプロセスを経た上での決断なら、たとえそれが負債であっても否定する気はありません。
それはむしろ好ましいことだと思います。
世の中には自分にとって本当に必要なものや満足感や幸福感を得られるものが分からず、お金が上手く使えない人も多いからです。
だからそれほどまでに「必要だ」と自信を持って言えるものを見付けられるのは非常に幸せなことと言えます。
こうした判断を重ね、覚悟を決めた上での判断なら、どんなに維持するのが困難でも後悔することは無いでしょう。

まとめ

世の中を支配する「普通」という悪しき信仰について解説しました。
人間の本能は「基準や選択肢を与えてもらって判断を楽に、かつ責任は回避したい」という非常に怠け者な性質を持っています。
そこに幼いころからの刷り込みが重なれば、自分の軸や考えを持とうと意識しない限り「普通」の奴隷に成り下がってしまいます。

本当に知るべきことは、世の中の普通が何なのかではなく自分は何を大事にしたいのか(=価値観)です。
家や車や結婚など「普通」の生活と言われるものを目指すのがダメだ、愚かだなどと言うつもりは全くありません。
「みんなが持ってるからといって幸せの要素とは限りませんよ?」「沢山の困難やコストが伴うことを覚悟してますか?」という点に関して一度冷静に考えようということです。

マーケティングの話をしたので民間企業に怒りの矛先を向けた人もいるかもしれませんが、「普通」を強要してくるのは国・政府も同じです。
多くの国民に負債を背負わせれば、負債に充てるお金を稼ぐためにせっせと働き続け、多くの税金を納めてくれるわけですからね。
だからといって政府や企業を批判するだけでは単なる生産性のない他責思考で終わるだけです。
ここで学ぶべきことは、自分の人生のことを本気で考えてくれるのはこの世に自分しかいないということ。
そしてそのためには自分で学び、考える力をつけるしかないということです。

ボウリングのバンパーみたいなものを社会は用意してくれないからね

そして学んだ武器で自分の人生や資産を守っていくのです。
「周りは敵だらけ」とまでは言いませんが、積極的な味方も存在しません。
悲しい事実ですが、このことを肝に銘じて気を引き締めて生きていきましょう。

てなとこで。