【科学が答え?】エビデンス偏重の問題点|ロジカルシンキングの負の側面

一昔前は何かの提案をする時など「数字で根拠を示せ」と言われていました。
もちろん現場では主観や直感が大事なこともあります。
しかし会社という組織や大きなお金が動く以上、何かしら主張の根拠や手がかりが欲しいと思うのは当然でしょう。

こうした根拠などを重視する傾向はビジネスシーンが中心でしたが、最近はで一般人の日常生活でも重視される傾向にあります。
科学的根拠・エビデンスに基づくライフハックやお金の使い方、ダイエット法などジャンルも様々です。
何かにつけて「根拠は?エビデンスあるの?」とか「それサンプル数1じゃね?」みたいな鼻につく物言いをする人もかなり増えた気がしますよね(笑)。

自己流で闇雲に進めるより、研究成果などから得られる知見を活用する方がおおよそ効率的なことは事実です。
しかし効率性ばかりを重視して科学的根拠に偏重する傾向には落とし穴もあるので、このページでは過度なエビデンス偏重の問題点を解説します。

1 エビデンスの中身はブラックボックス

「科学的根拠に基づいた」とか「研究がある」と聞くと、信ぴょう性は高く感じる人が多いでしょう。
しかし実験や研究には一般にあまり知られていない事実、注意が必要なポイントがあります。
具体的には以下の3点です。

①単なる多数決
②研究手法にバラつきがある
③現実と実験の差

1-1 エビデンスと言っても所詮は多数決

まず「科学的根拠やエビデンスが重要」ということだけしか知らない人が注意しておくべきことがあります。
それはエビデンスとは多数決の結果に過ぎず、100人中100人に当てはまるものではないということです。
100人中90人に当てはまるモノもあれば100人中70人にだけ当てはまるものまで広くあります。

確率論から言えば多数派に属する可能性を考えて行動する方が合理的と言えるかもしれません。
しかし全てのエビデンスが圧倒的に多数派というわけでもないのです。
60:40の割合なら少数派に属する可能性も十分あると思えるんじゃないでしょうか?
そして実際に少数派に属する人だったら、いくらエビデンスを頼りにしても思うような成果は得られないでしょう。

1-2 研究の手法にも注意が必要

研究や実験といったものの設計に関する知識がある人なら分かると思いますが、その条件は結果大きくを左右する重大な要素です。
質的研究と量的研究という2つの分類が代表的で、基本的には前者が介入手法、後者が観察手法を採ります。
後者の量的研究は被験者(観察対象)の普段の生活を観察し追跡調査するような手法で、多量の情報を得られますが、結果の要因が不明確になりやすいのがデメリットです。
一方で前者は実験室研究とも言われ、多くの被験者に実施できない代わりに条件をコントロールすることで、要因を明確にしやすいというメリットがあります。
簡単に言えばどちらも一長一短、完全な研究手法というのは存在しないのです。

ただし研究の手法だけではなく中身にも注意しなければいけません。
というのも長期間の観察や介入が必要と思われる研究でも実際にはかなりの短期間で結論を出してるケースや動物実験止まりというケースが多々あるからです。
同じ哺乳類でもマウスと全く同じ反応を人間がするとは限りませんよね?

特にマウス実験は疑問視されることが多いから、そもそもエビデンスだと思わない方が良いよ

1-3 普段と同じ反応とは限らない?

実験室での研究は質が高いと説明しましたが、バイアスがかかりやすいという点には注意しなければいけません。
自分が実際に被験者になった気持ちで考えてみてもらうと分かりやすいと思います。
「これから何かの研究がされる」と思うと、普段の自分とはちょっと違った反応をしてしまいそうな気がしませんか?
実験室での研究におけるバイアスとはそういう現実との微妙なズレのことです。

ある実験では100人中80人でAが良いという結論が得られても、別の研究では100人中55人でBが良いという結論になることも十分あり得ます。
そして実際に研究の結論が時代とともにどんどん変化していってるというのが現実です。

2 思考停止の危険

エビデンスを重視することの問題点の2つ目は思考停止の危険があることです。
世の中の多くのことには明確な答えはありません。
どの選択でもそれなりに正解っぽいし不正解のような気もする。大体のことはこんな感じです。

しかし科学的根拠・エビデンスを絶対視するようになると、この当たり前の事実の認識が薄らいでしまいます。

「正解は科学が教えてくれる」ってね

言わずもがなこれは思考停止以外の何物でもありません。
エビデンスを含めた様々な情報と自分の実情を考え合わせて自分なりの答えを導くというのが本来あるべき姿です。
健全な思考力を持っていれば、科学的に実証されたモノを含む様々な方法を自分で試し、失敗を繰り返しながら答えらしいものに近付いていきます。

ところがエビデンスこそが答えと思ってしまってる人は、世の中が与えてくれる答えをただ口を開けて待ってるだけという状態です。
科学的な知見はあくまで知識や判断のベースとして取り入れ、それらを取捨選択や咀嚼していく。
それが出来ないなら、それは博識ではなく単なる知識マニアでしかありません。

思考停止して正解が降ってくるのをただ待つだけの姿勢が定着してしまうと、新聞やニュースで報道される価値の無い情報に踊らされ続けることになります。

こうした考え方の問題はもう1つ、実は圧倒的に質の高い直感的なアウトプット・アイデアを「エビデンスあるの?」で簡単に切り捨ててしまう視野の狭さです。
一度正解だと思い込んでしまうと、既存の認識や知識に反する事実などに柔軟に思考をシフトチェンジできなくなります。
確証バイアスによって自分の認識と辻褄の合う情報にだけ注目し、反する情報を軽視するようになるわけです。

いわゆる正論バカってやつだね

こうした唯一絶対の答えがあるという勘違いは、学校で扱う科目のほとんどがロジカルシンキングを基本としていることに原因があります。
基本的にロジカルシンキングは、決められた一本の論理の上を辿って1つの正解に到達する思考法です。
幼少期からこの考え方に親しみ、というよりドップリなため、多くの人は答えが1つに定まらないものでもどれか1つの正解があるはずと思い込んでしまいます

結果としてどれも一部は正しそうで一部は微妙なためにどれも選べない、これが行動できない人の根本的な原因の1つです。
これを含めた学校教育で刷り込まれた思考の問題点についてはこちらのページで解説しています。

3 権威主義の落とし穴

エビデンス重視の思考は権威主義バイアスの表れとも言えます。
そもそも権威主義とは何なのか?そしてこの思考にどんな問題があるのかについてそれぞれ解説します。

3-1 権威は人の目を曇らせる

権威主義とは、資格や実績、肩書などを持つ人の言うことの信ぴょう性を高く評価してしまうという人間の思考の癖です。
健康に関しては一般人より医者の言うことの方が信じられる気がするし、Googleの検索アルゴリズムでも権威性は重視されています。
これらのことから権威には一定程度の信頼性と、それを信じることに合理性があることは確かです。

しかしこの権威の基準は実に頼りないもので、判断の目を曇らせるという特徴があるため注意しなければいけません。
よくドラマで医師役を演じた俳優が健康食品やサプリメント、美容整形外科の広告に起用されることがあります。
一見すると何の関係もなさそうですが、人は無意識に医師役のイメージをその健康食品の信頼性に投影してしまうのです。
映画やドラマで悪役を演じるイメージが強い人が1日警察署長などに起用されないことなどでもイメージしやすいかもしれません。

このバイアスによって、研究機関が出したエビデンスだから中立で安心と思い込みやすいですが、これは必ずしもそうとは言えないため実は注意が必要です。

3-2 権威が中立とは限らない

人間の性質や行動はそんなに大きく変わらないはずなのに、研究結果が時の経過とともに二転三転することがあります。
これは既に述べた観測の仕方などの問題や、計測手法・技術の進歩などの影響もありますが、もう1つ大きいのはスポンサーの影響によるポジショントークの可能性です。

研究には莫大な費用がかかり、その費用を民間の営利企業などが提供していることがあります。
そういう事情があると、スポンサー企業に不利になる結果は出しにくいというのが自然な心情です。
結果として可能性を示唆するにとどめたり、表現をマイルドにしたりするため情報の正確性は失われます。

仮に研究機関から直球のレスポンスが返されたとしても、企業側で自分に不都合なら公表しなければ問題ありません。
生存者バイアスなどに似ていますが、世に出ている情報は誰かにとって都合の良いものに偏りやすいということです。

また結果がお金・商売に繋がらない研究には資金が集まりにくいという問題もあります。
例えば運動の効果は非常に多岐にわたり、現代人の人生を変えると言っても過言ではありません。
しかしジョギングや筋トレなど運動はほとんどお金をかけずに出来るので、利益に結び付きにくいと言えます。
となると、その研究のために多額の資金を投じる企業は出てこないでしょう。

こういった事情を知らないと、企業Aがスポンサーになった研究機関の出したエビデンスをもとに企業Aの商品を買うということも起こり得ます。
一時期インフルエンサーや芸能人によるステマ(ステルスマーケティング)が問題になりましたが、似たようなことが研究分野でも起きる可能性は否定できません。
権威だから中立かつ信ぴょう性があると思い込むと、隠れた偏りによって判断を誤る危険があります。

何の利害関係もなく、様々な書籍や研究をフラットに統合して情報提供している一般人の情報の方が中立性という意味では信頼が置けるのかもしれません。

例えばぼくみたいなね

と、これもまたポジショントークの1つかもしれないですね(笑)。
つまり完全な中立を保った見解を述べることは難しい、と言うよりほぼムリということです。

まとめ

最近はやりのエビデンス・科学的根拠に傾倒することの問題点について解説しました。
エビデンスを絶対の正解と誤解してる人も多いですが、あくまで多数決の結果にすぎません。
しかも研究手法や研究者の立場、サンプルの取り方によって結果は揺れ動くため、見解も時々刻々と変化していきます。
そもそも権威だからといって必ず中立というわけでもありません

多くの人は1つの正解を求めるロジカルシンキングが染み付いてるせいで、何か確かな正解が存在すると思い込みがちです。
実生活において唯一絶対の正解など無いことの方が多く、様々な情報と自分の価値観から最終的には「自分なり」の正解を個々人が出すしかありません。
誰かが与えてくれた答えらしきものを盲目的に信じていれば、「科学に従っただけ」と自分に言い訳ができます。
しかし失敗しても科学が責任を取ってくれるわけもなく、単に自分の精神を守るためという生産性の欠片もない自己弁護でしかありません。

そんな心の保険を作るより、自分で考えて最良の自分の結論を導き決断する方が何倍も生産的です。
人間の心理とは器用なもので、自己決定感があれば例えその決断の結果で失敗したとしても肯定的に考えられると言います。
そうでなくても自分で考える力というのは基礎的な能力の1つなので、考える習慣は無くさないようにしたいですね。
てなとこで。