充実した人の苦しい人生|リア充アピールの闇

皆さんの生活は充実してますか?

美味しいご飯を食べるでも、国内外問わずあちこち旅行するでも、子供とかパートナーと楽しく過ごすでも何でもOKだと思います。

充実した生活の定義や要素は人によってまちまちで様々です。

価値観が多様化してる現代において幸せや充実感を感じる対象は人それぞれで、みんな違ってみんないい、はずですからね。

ところで皆さんの周りに「この人は本当に充実してるなー」って思う人はいますか?

最近はSNSを通して友人・知人がどうしてるか、どんな状況かを把握できますよね。

しばらく会っていない学生時代の友人やかつての同僚などでも簡単に近況にアクセスできます。

そんな近況から充実具合が伺える人たちが、実は充実してるどころかとても人生が苦しいと思うと言ったらどうでしょう?

そんなとこで今回は、充実アピールをする人の心理についてのお話です。

SNSに投稿する心理

みんなが当たり前のようにSNSで自分の近況をシェアする時代だから、どういう意図で投稿してるかなんて考えることもあまりないかもしれません。

でもあまり積極的に投稿するタイプじゃない人間から冷静な視点で見るとけっこう不思議なものです。

シンプルに「何のため?」って思ってしまいます。そうする合理的な理由や目的が見当たらないからです。

インフルエンサーとしての立場を確立すれば、スポンサーや企業案件がついてマネタイズしたりできるかもしれません。

しかし素人全員ができるほど甘くないし、実際にビジネスや利益を狙ってやってる人は少ないように思います。

では、何を目的にSNSを彩ってるかと言えば、それは「いいね」や「フォロワー」といった尺度です。

さらに言えば実際に「いいね」の数字が伸びなくても、周囲に彩られた自分をアピールすることに意味があるのです。

価値観の多様化

戦争を生きた世代なら「食」、「食」が満たされた後の世代は「金」に価値観が移動したと言われています。

だから高齢者世代は若者に食べきれないほどの食べ物を進め、団塊の世代辺りからは稼ぎ・昇進を追求する人が多い傾向にあるのでしょう。

価値観とは「価値」って言葉がつく通り、その人にとって大事なモノ・希少なモノに見出されるものです。

これまでの時代は誰にとっても共通して貴重だとされるものがあったので価値観も画一的で単純でした。

特に食べ物やお金は生きていく上で欠かせないモノなので、共通の価値観として浸透しやすいと言えるでしょう。

ほとんどの人が価値観を共有してる時代ならそれを追求するだけで、人に羨望され承認されることになります。

しかし冒頭でも書いた通り、生命活動に必要な最低限が満たされてる現代では価値観が非常に多様性に富んでいます。

食べ物はもちろんお金をたくさん持っていても昔ほど称賛されることが無くなってきています。

ましてや細かい拘りやニッチな趣味など、興味のない人に理解されることはまずありません。

価値観を共有するコミュニティの数が爆発的に増えると同時に、個々のコミュニティのサイズが極端に小さくなってると言えます。

そして現代人の多くは無意識にでもそのことに薄っすらとは気付いているんです。

承認欲求は人間の弱さの現れ

他人と価値観を共有するのが難しいと自覚しながらも、その一方で承認欲求から逃れるのも難しいというジレンマがあります。

価値観が単一で明確だった時代にも承認欲求はありました。ただ表面化しなくても良かっただけです。

大企業に勤めてれば皆が凄いと思ってくれるからね

でも現代は隣の誰かは自分のやってることを何とも思ってません。

別のページでも解説した通り、基本的に人は他人のことに興味がないから。これは価値観うんぬんに関係なくです。

しかし人間とは実に不完全な生き物で、物事を相対的にしか判断できません。

そして同時に不確定な部分をそのままにしておくこともできません。

比べる対象がないことは真っ暗な宇宙空間に投げ出された状態と同じです。

自分のいる位置が高いのかも低いのかも分からない。前に進んでるのか落ちてるのかも分からない状態。

こんな空間は非常に居心地が悪く、精神的に大きなストレスにもなります。

つまり何かと比べることでしか自分の立ち位置がどの辺りなのかを知ることが出来ず、それをそのままに出来ないから比較してしまう。

ここに自己「不」満足が重なった結果がSNSの投稿です。

自己満足というと停滞や向上心の無さと結びつくネガティブなイメージのワードですが、実は大事な能力だとぼくは思ってます。

自分自身の判断で自信を持って「これで良い」とOKを出せない人が、他人からのポジティブな評価(=承認)を求めてしまうからです。

「お金を持って贅沢な生活してるけどホントにこれで良いのか?」と不安になった人が「そうだSNSに上げて皆の反応を見てみよう」といった感じでしょう。

そしていいねが集まると「ああ、やっぱこれは皆に称賛される生活なんだ」と安心します。

自分の立ち位置を把握したい欲求と、自分の判断を信じられない心理的な弱さの2つが承認欲求の元凶です。

充実してる人が苦しいワケ

あなたの周りで充実してる(ように見える)人というのは、自分の生活を公にアップしてる人です。

そういう投稿は基本的に脚色されてるので、充実した生活=充実してる人という認識になるでしょう。

しかし積極的にSNSに自身の生活を公表してる人は、実は自分に自信のない承認欲求に駆られた人です。

承認欲求とは誰もが持ちうる感情ではありますが、一方で誰もが駆られるものではありません。

自分の立ち位置を不明確なままにしておけない人は多いです。これは人間の心理特性なので仕方ありません。

しかし承認欲求に駆られてしまうのは自分自身に満足できていないことに他なりません。

この時点で十分苦しいと言えますが、この人たちには更なる苦しみが待っています。

それが価値観の多様化という問題です。解説した通り、現代は昔ほど価値観が画一的じゃありません。

価値観は広く浅く、共有できるコミュニティのサイズは急速に小さくなってきています。

つまり一生懸命に脚色してSNSにアップしたとしても、思った以上に市場規模が小さく、大きな反応は帰って来ない。

どんなに良い生活だと強調したところで、そのジャッジを手放した以上、是非を判断するのは他人です。

つまり自己満足なら自分の中で簡潔するのに、それをわざわざ他人に委ねてしまうわけです。

これはアドラー心理学でいうところの「他者の課題」というやつで、こちらからコントロールは出来ません。

ある程度人と関わった経験があれば気付けることですが、他人の考えを変えることはほぼ無理です。

説得しようとしても心理的リアクタンスが働くからね

こうして思ったリアクションが得られずさらに不安が増し、さらに承認欲求が高まるという負の連鎖に陥ります。

自分のところにジャッジ権を引き戻さない限り、永久にこのループからは抜けられず、苦しみ続けることになるでしょう。

まとめ

価値観の多様化と承認欲求の問題についてでした。

SNSで充実アピールをする人の心理は自信のない自分の価値観を周囲の人に補強してもらうためと言えます。

アドラー心理学では否定されてますが、承認欲求は誰しも持ってしまっても仕方がない感情です。

かく言うぼく自身もSNSで充実アピールこそしませんが、自分の中に承認欲求を感じないわけではありません。

しかし生活スタイルや水準に正解はないということに、大好きな筋トレを通して気付き、自己満足の境地に達しました。

コンテストに出れば勝敗はありますが、それはその大会の審査基準という物差しに乗った場合だけの話です。

どこそこの大会で入賞したからと言っても、筋トレしてる人全員がその身体に憧れるわけじゃありません。

どんな身体がカッコイイかは人によって考え方は様々。結局大事なのは自分が良いと思えるか、です。

その関係で言うと自分の中に明確な判断の手掛かりを持たない人が信奉しがちなのが、エビデンスや科学的に「正しい」こと。

確かに合理的に生きることに価値を置いてる人にはピッタリですが、「根拠や効果があること=正解」という考えも間違いです。

健康に生きたい人にとっては医学や健康などの分野の研究結果が正解かもしれません。

しかし楽しく生きたい人にとってはジャンクを気にせず食べることが正解ってこともあり得ます。

そんな人を見て「バカだ」と見下す人は正論というガキ大将の後ろに隠れて大きな顔をする腰巾着と同じレベルでただただみっともないだけ。

承認欲求を避ける意味でだけじゃなく、価値観の多様性を認める意味でも、自分の価値を評価できるのは自分だけという考えが必要だとぼくは思います。

てなとこで。

参考文献